Sunday, February 1, 2009


低い丘の上に建つ家に向かって右にまず枇杷の木があり、その木が窮屈そうに枝を伸ばすとなりには農機具等の入った肥料臭いトタン屋根の小屋があった。さらにその右にはあんまり元気のない畑があった。なにが植えてあったのだろう。子供の私には粘土質の土地は、雨の後、かっこうの遊びになったはず。気の毒なのはそこを住処にする蛙たちで、逃げ遅れたら最後、まったく人間不信になるような体験が待っていた。同様に不幸なのは一つしたの女の子で、乱暴で危なっかしいいとこの私を相手にしなければならなかったのだから。一日中悪さをした後、自分の家の煮魚をメインにしたメニューよりもずっとすてきなものを食べさせてくれる叔父叔母の、「泊まっていくかん」と言ってくれるのを顔にださないようにして待った。うまくことがはこんだ時は、それからその丘に立つ家の玄関のある階を一階として二階に上がり、窓を開け、多分半里くらい向こうのこれはもう少し高い丘の上にある自分の家の母を見つけ、大きな声で、清水家のおばあさんの「クンちゃん」を呼ぶ声にまけないように、「おかぁさぁん、今晩、たかちゃんとこにとまるよぅ」と叫ぶ頃はもう日暮れで、五時の蒸気機関車の残していった石炭の焼ける匂いも、もう記憶の中だけで実際にはもうなく、なんとか自分の中に保有していきたいのにそれもままならない。
藁家に住んだ祖父祖母の家の記憶は、陽のよくあたる縁側の向こうにあった柿の木で、秋になると祖父が枝から落ちてきた沢山の毛虫とこれも柿の木から落ちてきた葉を箒でかき集め火をつけた。細い白い煙が上がり、秋の風のない日、天に向かって真っすぐに昇っていった。縁側には櫓があったのを覚えている。祖父は櫓の職人だった。「藁家の雨は外に出て聞け」というのを聞いたのは、二人が私の母と母の妹、兄を育てたその家を出て何年も後のことで、二人が線路の近くの小さな家に住んでいるころだったはず。だからその諺を意識して体験することはなかった。そのころ私は月に一度祖父の散髪をした。とくに予告することなく現れる私に祖父は頼まれた鋸の歯を鑢で研ぎながら、「よう来たのう」と言った。祖父はいつも大きな荷台のついた黒い自転車を押していた。黒い帯のようなものをズボンのベルトにしていた。大学に入って一年の時の秋、祖父は死んだ。最後に会った時、祖母が何度も大きな声で、「カンくんよ」と言うと、一度だけ、「カンくんか」と答えた。それからはなにも言わなかった、最後の言葉になった。それから三年後、ブラジルのサンパウロ駅の近くの宿で祖父の夢を見た。祖父は一面に花の咲き乱れる野にいた。黒い帯をベルトにしていた。その花の野に祠があった。ひとつひとつ花を手にしながら、ゆっくりと歩いている祖父の様子に私はほっとした。そして、私はうれしかった。
写真は祖父が好きだった場所

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