
朝霧の上には背の高い松の木の上のほうだけがシルエットとなってそのむこうの鬼ヶ城という二つの同じ背丈の山が見えた。朝日の昇りそうな時間で、夜が去っていくのがなごりおしそうにしているいくつかの灰色の雲の下には茜色が広がっていく。視界の下のほうでは焚き火の白い煙が真っ直ぐに天に向かっていく。反対側の窓からは木々の間に穏やかな六月の響灘。漁を終え港に急ぐ漁船も見えた。アメリカへ出発した二十一年前と同じだ。今年で人生の半分を米国で過ごしたことになる。階段をゆっくり下った。 羽田行きの飛行機に乗るため、朝早く母の家を出た。母は丘の下の道まで見送ってくれた。本数の少ない山陰線はまだ始発のない時間で、タクシーで飛行場まで向かわなければならなかった。 宇部から羽田への飛行機の左側からは数分間ほど富士山が見えた。右側に座っていたのだが、パイロットのアナウンスで反対の空いた席に移った。箱根の湖でも、小田原から京都に向かう新幹線からも靄がかかってよく見えなかった。どうでもよいようことだが、帰国したのだから見ておきたかった。十二日間無理を承知で仕事の合間、行きたいところへ行った。仕事を終え疲れを感じていたが、明日はワシントン行きの飛行機に乗られる。ほっとした。これからの日本での最後の日のことより十数時間の飛行時間をどのようにして過ごそうか考えていた。一日一日を日捲りのカレンダーのようにゆっくり様々な画像で重ねていく作業に熱中するのも悪くない。ともかく飛行機に乗れば帰られる。 一人旅の予定はアシスタントが来ることで変更になった。私が大学を卒業して、あの時結婚して子供ができていればこういう娘がいても不思議ではない年齢の彼女との旅行になった。この旅行のために初めてパスポートを取ったメリディスは地球の反対側にいることに嬉々としていた。着いた日,銀座のカフェで私をキラキラした大きな目で見て、「連れてきてくれてありがとう。」と言った。私は彼女の一生の思い出になるであろうこの旅行の首謀者であることを密かに楽しんでいた。「これはなに」、「あれはなに」の質問の連続にも、いろんなことを知っておいて欲しい父親の気分で、必要以上に丁寧に答えた。東京、箱根、京都、大阪、姫路、そして岡山からは特急で四国に渡る橋を夕焼けの時間に通過し、この出張の最終目的地である松山に着いた。四国は私も初めてだった。松山での仕事が終わった日の午後に私の「娘」は羽田に飛んだ。飛行場へ見送りに行った時、いつか自分の娘たちが家を出て行く時にはもっと辛いのだろうなと先のことを考えるとまったく嫌になった。日本を一人で出る時、私は母にもっと寂しい思いをさせたのだろう。 私はもう一晩泊まり,翌日の早朝、もう滞在理由のまったくなった松山を出るために港へむかった。松山での数日間足になってくれたタクシーの運転手は静かになり過ぎそうな空間でうまく会話を続けてくれた。娘が成田に向かっていそうなころフェリーで広島へ渡った。瀬戸内海はおだやかな波で、その上にたくさんの雨の跡が見えた。距離のわりに時間がかかった。広島港からは路面電車は濡れた線路でJR駅へ。そして新幹線で小倉へ向かった。雨滴の流れる窓の向こうに見える植物群は気が付くと中国地方のものになっていた。小倉駅の線路の上に架かる歩道から空を見ながら、成田までメリディスの見送りを頼んでいた東京の友人の携帯に電話を入れ、無事に出国したことを確認した。九州から逆方向再び長いトンネルを抜け下関へ、そして単線の山陰線。乗客のいない二両の列車からは平行して走る名ばかりの国道、そして小さな車たち。田には規則正しく稲が植えられ、そして緑の山々。向かいの席には夜店のためのおもちゃを買出だしに行く祖母、そしていつもいっしょについて来る妹分のいとこ、若かったころの母、けんかばかりしていた兄、祖母の家へ彦島から連れて行った親戚の悪がきたち、通学でいっしょだった高校の友達の顔が見えた。一瞬にして消えた藁葺き屋根の下では祖父が鋸のは鑢で研いでいた。乱暴に大きくなってすぐに消えてしまう信号の音。踏み切りには黄色い帽子を被った小学生が並んでいる。無人駅になりかかっている小串駅では線路を越える橋の上から海が見えた。前の島も見えた。島の上にはどこまでも空がつづいている。母には連絡をせずに、駅から傘をさして一人でゆっくり歩いて帰った。駅から母の家への道では私は巨人になる。ここでは時間が経っていない。折り返し下関にもどるディーゼル車が過ぎていくと蒸気機関車の石炭の匂いが蘇る。田舎に帰るのは苦手だ。でも富士山と同じだ。日本に行って、仕事をしてそのまま帰ってしまうわけにはいかない。家に着くと少し大きな声で、開け放しの玄関に向かって、「ただいま」と言った。
No comments:
Post a Comment