
低い丘の上に建つ家にむかって右にまず枇杷の木があり、その木が窮屈そうに枝を伸ばすとなりには農機具の入った肥料くさいトタンの小屋があった。その右にはあまり元気のない畑があった。なにが植えてあったのだろう。子どもの私にはその粘土質の土地は、雨のあと、かっこうの遊び場になった。気の毒なのはそこを住処にしていたかえるたちで、にげ遅れたら最後、まったく人間不信になった。さらに不幸なのは一つ下の女の子で、乱暴で危なっかしい私を相手にしなければならなかったのだから。一日中悪さをしたあと、自分の家の煮魚をメインとするメニューよりすてきなものを食べさせてくれる叔父叔母の、「泊まっていくかね」と言ってくれるのを顔に出さないようにして待った。うまくことがはこんだ時は、それからその丘に建つ家の玄関のある階を一階として、二階に上がり、窓を開け、多分は半里くらい向こうのこれはもう少し高い丘の上にある自分の家の母を見つけ、大きな声で、清水家のおばあさんの「くんちゃん」を呼ぶ声にまけないように、「おかあぁさぁん、今晩たかちゃんとことまるよぉ」と叫ぶ頃にはもう日暮れ、五時の蒸気機関車の残していった石炭の焼ける匂いも記憶の中だけで実際はもうなく、なんとか自分の中に保有しておきたいのにそれもままならない。
藁家に住む祖父祖母の家の記憶は、よく陽のあたる縁側の先の庭にあった柿の木で秋になると祖父が枝から落ちてきた沢山の黒い毛虫とこれも柿の木から落ちてきた葉を庭箒でかき集め、火をつけた。ほそい白い煙が上がり、秋の風のない午後、天に向かって真っ直ぐに昇っていった。「藁家の雨が外に出て聞け」というのを聞いたのは、二人が私の母とその妹、兄を育てたその藁家を出て、何年も後のことで、二人は線路の近くの小さな家に住んでいる頃だったはず。だからその諺を意識して体験することはなかった。そのころは私は一月に一度祖父の散髪をした。とくに予告することもなく現れる私に祖父は頼まれた鋸の歯を鑢で研ぎながら、「よう来たのう」と言った。祖父はいつも大きな荷台のついた黒い
自転車を押していた。黒い帯のようなものをズボンのベルトにしていた。遠い東京の大学に入ってから1年の時の秋、祖父は死んだ。最後に会った時、もう意識もほとんどなかった。祖母が大きな声で、「かん君よ」と何度か言うと、一度だけ、「かん君か、よう来たのう」と答えた。それが最後の言葉だった。それから三年後、ブラジルのサンパウロの駅の近くの宿で祖父の夢を見た。祖父は一面にきれいな花の咲き乱れる広野にいた。そこには祠があった。ひとつひとつ花を手にしながらゆっくり歩く様子に、私ははっとした、そして、とてもうれしかった。
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